このようなことを聞いた。釈迦が大勢の出家した弟子達、菩薩達と共に王舎城の霊鷲山に訪れた際、釈迦は深い悟りの瞑想に入った。
その際、観音(観自在菩薩)は深淵な『智慧の完成(般若波羅蜜多)』の修行をしていてこのように見極めた。
人は、自分や自分の魂というものが存在すると思っているが、実際に存在するのは体・感覚・イメージ・連想・思考という一連の知覚を構成する5つの要素(五蘊)であり、そのどれもが自分ではなく、自分に属するものでもなく、またそれらの他に自分があるわけでもないのだから、結局、どこにも自分などというものは存在しないのだ。
しかもそれらの5つの要素も幻のように実体がないのだ。この智慧によって、全ての苦しみや災いから抜け出すことができた。
釈迦の弟子、長老の「シャーリプトラ(舎利子)」は、観音に次のように尋ねた。「深淵な『智慧の完成』の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのだろうか?」観音はシャーリプトラに次のように説いた。
「シャーリプトラよ、体は幻のように実体の無いものであり、実体の無いものを本当にある物のように思っているのだ。体は幻のように実体のないものに他ならない。
といって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではない。体は実体が無いというあり方で存在しているのであり、実体が無いというあり方が体の真実の姿なのだ。
これは体だけでなく、感覚・イメージ・連想・思考も同じだ(自分が存在するとこだわっているものの正体であると釈迦が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体では無い)。
シャーリプトラよ、このように全ては実体ではなく、生まれることも、無くなることも無いのだ。汚れているとか、清らかであるということも無い。福徳が増えたり、迷いが減ることも無い。
このような実体は無いのだという高い認識の境地からすれば、体・感覚・イメージ・連想・思考も無い。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心も無く、色・形・音・匂・味・触といった感覚の対象も様々な心の思いも無い。
目に映る世界から、心の世界までも全て無い(釈迦が説いた「十二処」は小乗仏教がいうような実体では無い)。迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それが無くなることも無い。
同様に迷いの最後の結果である老いも死も無く、老いや死が無くなることも無いのだ(釈迦が説いた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教がいうような実体ではなく、生まれも無くなることも無い)。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみが無くなることも、苦しみをなくす修行法も無い(釈迦が説いた「四諦」のそれぞれは小乗仏教がいうような実体では無い)。
知ることも、修行の成果を得ることも無い。また、得ないこともない。そのような境地だから、菩薩達は『智慧の完成』により、心に妨げがない。心に妨げが無いので恐れもない。
誤った妄想が一切ないので、完全に開放された境地にいている。過去・現在・未来の全ての仏も、この『智慧の完成』によって、この上なく完全に目覚められたのだ。知らなくてはいけない。
『智慧の完成』は大いなる真言(呪文)、最高の大いなる悟り、他に比べようが無い真言であり、全ての苦しみを取り除くものであり、偽りが無く確実に効果があるものなのだ。
『智慧の完成』の真言はこうだ、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(智慧よ 智慧よ 完全なる智慧よ 完成された完全なる智慧よ 悟りをもたらしたまえ)」。
シャーリプトラよ、深淵な『智慧の完成』の修行をするには、このように学ぶべきである。」この時、釈迦は瞑想を終え、「その通りである」と、喜び観音を褒め称えた。
そして、シャーリプトラや観音やその場にいた一同を始め、世界の全ての者達は釈迦の言葉に喜んだのだ。
『智慧の完成』の真言(真髄)の教え