般若心経が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の思想だ。
つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中で全てを「空」であると洞察するのだ。
般若心経が次々と数え上げながら、「空」や「無」と否定しているのは、「十二処」「五蘊」「十二縁起」「四諦」など、釈迦が説いたとされる仏教の中心的な教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものだ。
小乗仏教は世の中のあらゆるものを細かく分析し、真に存在するものを「法」と呼んだ。
そして、観の瞑想により「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」は無常なもので、執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとした。
そして、「法」は悟りと関係した清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだと考えた。
しかし、大乗仏教は、小乗仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判した。
般若心経は、小乗仏教のこの理論(アビダルマ論)を知っている人を対象にして、「法」も含め全てのものは「空」であって、もともと真実に存在しているものではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れるということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判している。
般若心経は、決して「十二処」「五蘊」「十二縁起」「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのだ。
そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いているのだ。一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、完全版が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」だ。
玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されているが、サンスクリット原典では「五蘊がありそれが空である」と書かれている。
つまり、釈迦が悟った五蘊説をまず認め、次にそれを実体と見ることを否定しているのだ。
五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが般若心経を理解する基本になる。
玄奘訳に「色不異空空不異色色即是空空即是色」という有名な一節があるが、サンスクリット原典などにはこの前に「色性是空空性是色」と訳される部分があり、本来は三段階の説明だった。
同じ内容を少し違った表現で3回繰り返しているだけかもしれないが、「空」を説明する場合に、まず実体的な見方を否定し、次にそれを相対的に認めることで何も存在しないとう極端な考え方を否定し、最後にそのどちらにも片寄らない中立の立場に立つ、というように3段階で説明をする伝統もある。