佛前勤行次第(ぶつぜんごんぎょうしだい)
合掌礼拝(がっしょうらいはい)
恭しくみほとけを礼拝(らいはい)してたてまつる
三信条
大師(だいし)の誓願(せいがん)により二世(にせ)の信心(しんじん)を決定(けつじょう)すべし
四恩十善(しおんじゅうぜん)の教えを奉(ほう)じ人の人たる道を守るべし
因果必然(いんがひつねん)の道理を信じ自他のいのちを生かすべし
三帰(さんき)
で し む こう じん み らい さい
弟 子 某 甲 尽 未 来 際
き え ぶつ き え ほう き え そう
帰 依 仏 帰 依 法 帰 依 僧
この身(み)今生(こんじょう)より、未来際(みらいさい)をつくすまで、深く三宝(さんぼう)に帰依(きえ)したてまつらん
三摩耶戒(さんまやかい)
おん さんまや さとばん
われらはみほとけの子なり、ひとえに如来大悲(にょらいだいひ)の本誓(ほんぜい)を仰(あお)いで不二(ふに)の浄信(じょうしん)に安住(あんじゅう)し菩薩利他(ぼさつりた)の行業(ぎょうごう)を励(はげ)みて、法身(みほとけ)の慧命(いのち)を相続したてまつらん
三竟(さんきょう)
でしむこう じんみらいさい
弟子某甲 尽未来際
きえぶつきょう きえほうきょう きえそうきょう
帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟
この身(み)今生(こんじょう)より、未来際(みらいさい)をつくすまで、ひたすら 三宝(さんぼう)に帰依(きえ)したてまつり、とこしなえにかわることなからん
十善戒(じゅうぜんかい)
この身(み)今生(こんじょう)より未来際(みらいさい)をつくすまで十善のみおしえを守りたてまつらん
でじむこう じんみらいさい
弟子某甲 尽未来際
ふせっしょう ふちゅうとう ふじゃいん ふもうご ふきご
不殺生 不偸盗 不邪婬 不妄語 不綺語
ふあっく ふりょうぜつ ふけんどん ふしんに ふじゃけん
不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見
不殺生(ふせっしょう)
殺さない。命あるのも全てに対し、恐れることは何も存在しないと示す。
不偸盗(ふちゅうとう)
盗まない。理由のないものを欲しいと思わない。
不邪淫(ふじゃいん)
異性に対する邪な行為にふけらない。
不妄語(ふもうご)
誤った言葉や、悪意や敵意をもって言葉を使わない。
不綺語(ふきご)
飾った言葉を使わない。へつらわない。
不悪口(ふあっく)
人を傷つける言葉を言わない。口には、人を傷つける斧があるといわれる。
不両舌(ふりょうぜつ)
二枚舌を使わない。誰に対しても真実を喋る。
不慳貪(ふけんどん)
貪りを離れ、少なきを分かちあう。
不瞋恚(ふしんに)
瞋り(いかり)、高ぶる心を捨て、人を慈しみの心で見る。
不邪見(ふじゃけん)
邪な見かたを離れ、物の本質をありのままに見る。
自身の心を楽にする戒め授戒を受ける
懺悔(さんげ)
が しゃく しょ ぞう しょ あく ごう
我 昔 所 造 諸 悪 業
かい ゆ む し とん じん ち
皆 由 無 始 貪 瞋 痴
じゅう しん ご い し しょ しょう
従 身 語 意 之 所 生
いっ さい が こん かい さん げ
一 切 我 今 皆 懺 悔
無始(むし)よりこのかた 貪瞋痴(とんじんち)の煩悩(ぼんのう)にまつわれて、身と口と意(こころ)とに造るところのもろもろの、つみとがをみな悉(ことごと)く懺悔(さんげ)したてまつる
朝夕勤行
朝は希望に起き、夕は感謝に眠る。これが菩薩行の一日一日である。希望をもつもの必ず神に祈り、感謝をもつもの必ず佛(ほとけ)に礼拝(らいはい)する。
朝(あした)に夕(ゆうべ)に、念誦(ねんじゅ)の一刻(ひととき)静座(せいざ)して心を正しうしなければならない。
発菩提心(ほつぼだいしん)
おんぼうじ しった ぼだはだやみ
白浄(びゃくじょう)の信心を発(おこ)して無上の菩提を求む、願わくは自他もろともに仏の道を悟りて生死(しょうじ)の海を渡りすみやかに解脱の彼岸に到らん
般若心経(はんにゃしんぎょう)
般若心経は 仏教の精要(せいよう)密蔵(みつぞう)の肝心(かんじん)なり。
このゆえに誦持講供(じゅじこうく)すれば 苦を抜き楽を与え修習思惟(しゅじゅうしゆい)すれば道(どう)を得、通(つう)を起す。
まことにこれ世間の闇を照らす明燈(みょうとう)にして生死(しょうじ)の海を渡す船筏(いかだ)なり。
深く鑽仰(さんごう)し 至心(ししん)に読誦(どくじゅ)したてまつる
開経偈(かいきょうげ)
む じょう じん じん み みょう ほう
無 上 甚 深 微 妙 法
ひゃく せん まん ごう なん そう ぐう
百 千 万 劫 難 遭 遇
が こん けん もん とく じゅ じ
我 今 見 聞 得 受 持
がん げ にょ らい しん じつ ぎ
願 解 如 来 真 実 義
無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭(あ)い遇(あ)うことかたし、我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり、願わくは如来の真実義(しんじつぎ)を解(げ)したてまつらん
※宗派により異なります。